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楠正成像とその碑文
昼休みに楠公像を見に行った。実は先月にも一度見に出かけたんだが、気象庁あたりから歩き始めて、銅像を見つけられずに、気が付いたら桜田門だったんだよ。って言っても千代田区に詳しい人しか分からないよなぁ・・・。まぁ皇居の御堀に沿って歩いていたんだが、ずぅっと皇居の方を見ていたのさ。で、楠公は御堀の外側にいらしたってぇことです。


これです。
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大きいなぁ。でもなぁ、尻尾が引力に逆らってない?


ワシが楠公像を見つけたときに、どっかの私立小の子どもたちがガイドの説明を受けていた。4年生くらいかなぁ・・・。制服で30人くらいの全員が女の子だった。

で、バスガイドがこう言った。
「みなさぁん、どーしてこの銅像は正面を向いてないか分かりますかぁ?それは、天皇様がお住いの皇居の方を・・・。」


へぇ、そうだったのかぁ・・・。

次にあらわれたのがどっかの農協の団体・・・・かどーかは分かりませんがね。爺さん婆さんたちにバスガイドがこう説明した。
「皆さーん、この銅像は正面を・・・・・・。」

バス会社も芸がなさすぎじゃねぇか?もちっと勉強して差別化をはからんと勝ち抜けないぜぇ。


でもって、この像を作った経緯が書かれた碑文。ガイドの説明を鵜呑みにすると、楠公の顔の向きとは反対側、皇居からの死角に書かれてある。
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ワシも衰えたとは言え、元国語の教員だ。しかも國學院の漢文学の授業では石田先生に「優」をもらった俊才だ。こんなもんは簡単に読める・・・と思ったら、分からん文字が満載だった。正しくは、「分からん」のではなくて、分かるけれど「見たことのない異体字」だらけだったってぇことね。


とりあえずは原文ですな。旧字は無視して・・・。

 祖先友信開伊
 予別子山銅坑子
 孫継業二百季亡
 兄友忠深感国恩
 欲用其銅鋳造楠公
 正成像献之闕下
 家允未果継其志
 菫工事及功竣謹献

 明治三十年一月
 従五位住友吉左衛門謹識



書下し文を一応載せる?ちなみに書下し文なんて、ほとんど意味がない。どうにだって読めるし、まぁ分かりやすく訓を多用したものをあげておく。高島俊男さんがどっかで書いていらしたけれど、昔の人は漢文をそのまま読んで意味を理解したそうで。オレは全然ダメだから、漢文はとりあえずは動詞と思しきものを目安に読むんだが、ホントっ戦後の教育を受けた人間はグズグズですな。

ところで、ことさら小さく書かれている「臣」という文字は、「あなた様の忠実な臣下でありますわたくしめ」ってぇ意味の謙譲語だ。別にワシ等に向かって述べた言辞ではないって。天皇を意識した碑文だから、謙遜に謙遜を重ねて小文字になってんのさ。


 臣の祖先の友信、伊予の別子山に銅坑を開きしよ(自)り、子孫、業二百季を継ぐ。 亡き兄、友忠、深く国恩を感じ、其の銅を用ゐて楠公正成像を鋳造し、之を闕下に献ぜんと欲すれども、家允未だ果たさず。 臣、其の志を継ぎ、菫(わず)かに工事し、功竣するに及び、謹みて献ず。

 明治三十年一月

 従五位臣住友吉左衛門謹みて識(しる)す。



うううん・・・。「家允」が分からなくて・・・。たぶん、允は「胤」の当て字で、「家胤(家の後継ぎ)」・・・。苦しいかなぁ。


さて、訳ですな。

「臣の祖先の友信(住友財閥の三代目で17世紀後半の人)が、伊予(愛媛県)の別子山に銅坑を開いてから、子孫がその商売を二百年引き継いで参りました。今は亡き兄の友忠は、国の恩に深く感じ入り、「この銅山で産出される銅を用いて、楠正成公の銅像を鋳造して、天皇陛下に献じよう。」と望んだんですが、後継ぎも未だにこれを果たせないでいました。そこで、臣がその遺志を継ぎ、少しだけ手を加えて、竣工(完成)の運びとなり、ここに謹んで献じる次第です。

明治三十年一月

従五位 臣 住友吉左衛門 謹んで記す(次第です)」



とってもシンプルで、気負いや偉ぶるところが皆無のすがすがしい文章ですな。住友財閥の関係者、特に住友銀行の行員は、この15代吉左衛門を誇りに思うべきですな。


住友家についてはまた今度ということで・・・。
by obakeland2008 | 2013-11-08 21:52 | 勉強 | Comments(0)
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